以前
ある病院の緩和ケア病棟で、ボランティア(とはいえ患者さんと雑談するだけなのですが)として関わらせていただいたことがありました。
その時
ボランティア研修などでよくエリザベス・キューブラー・ロス博士の「死の受容プロセス」を見聞きすることがありました。
「死の受容プロセス」とは、私たちががんに罹り余命を宣告された場合、自らの死を受け入れてゆく際の心理的なプロセスのことです。
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第一段階:「否認」
自分が死ぬということは何かの間違いではないのかと疑う段階。
↓
第二段階:「怒り」
自分の死を拒否しようにも拒否できず、なぜ自分が死ななければならないのかと怒りを周囲に向ける段階。
↓
第三段階:「取り引き」
なぜ私は私の足のふくらはぎの筋肉の痛みを持っています
なんとか死なずにすむように運命と取り引きをしようと試みる段階。何かにすがろうという心理状態。
↓
第四段階:「抑うつ」
目前の死はどう取り引きしても打ち消すことができないと悟り、未来に対し何の希望もなく残された時間にも意味を見いだせず、憂鬱に落ち込んで何もできなくなる段階。
↓
第五段階:「受容」
死を自然のプロセスとして、自らが死に行くことを受け入れる段階。
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おおよそながらにまとめると、このような感じのことだったと記憶しています。
もちろんすべての患者さんがプロセス通りに歩むわけではありません。
むしろこのプロセスを見て感じるのは、私たちの心にとって「怒り」と「抑うつ」の根の深さです。
仏教でも三大煩悩は貪・瞋・痴であり、それぞれ「貪り」「怒り」「(自分自身への)無知」のこととされます。
犬のどが渇いて嘔吐
そういう意味ではこのプロセスは、「余命を宣告された患者さんだけのもの」ではなく、もともと私たちの中に潜在しているものです。
以前の記事
「怒りは偽装感情
にも書いたことですが
私たちの心は自分自身の本当の姿に直面させられそうになると「怒り」(瞋)を発します。
怒りを発することで、自分の本当の姿(自分自身への無知)に直面することを回避しようとするからです。
自分の本当の姿とは、「空っぽの自分」「無価値・無意味な自分」「商品価値のない自分」のことです。
(注 : これは自我サイドからの見解です。)
そんな「空っぽの自分」「無価値・無意味な自分」との直面を「怒り」を使って回避することに失敗した場合、私たちは落ち込んだり絶望したりします。
「生きている意味のない自分」
「社会に必要とされない(商品価値のない)自分」
「空虚で無力な自分」
2、膀胱めまい胆嚢の症状、3
そんな自分に直面させられそうになると、私たちはそれを怒りのエネルギーを以て全力で否定しようとし
それでも否定できずに無理やり直面させられると、憂鬱になり絶望するのです。
「死」は究極の形で私たちに自分自身という存在の「寄る辺なさ」「無力さ」「無意味さ」を有無を言わさず突きつけてきます。
その時
普段から私たちの心に潜在している自分自身への「寄る辺なさ」「無力さ」「無意味さ」に対する不安や恐怖・絶望が、そしてそれを回避する試みとしての怒りが発生します。
しかし
本当の安心は自分自身の「寄る辺なさ」「無力さ」「無意味さ」を回避することによってではなく、
ありのままの「寄る辺なさ」� �無力さ」「無意味さ」に留まることによって触れることができます。
それが第五段階:「受容」の姿であり、また坐禅の姿でもあるのです。
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